世界大百科事典(旧版)内のホジャ派の言及
【アーガー・ハーン】より
…38年ムハンマド・シャー治下のケルマーンでの反乱に失敗したハサンは,アフガニスタンを経て,40年シンドに避難した。イギリスのシンドおよびアフガニスタン政策遂行に貢献した後,48年ボンベイに移り住み,インドのニザール派信徒ホジャ派内の彼の地位をめぐる紛争を,66年裁判に勝って乗り切り,ホジャ派の精神的首長としての地位を確立した。81年没し,その子アリー・シャー(1885没)がアーガー・ハーン2世として跡を継いだ。…
【イスマーイール派】より
…一方,第8代カリフにイマームとして任命されたが,後に廃されたニザールNizār(?‐1096)を支持する派はニザール派と呼ばれ,ハサン・サッバーフによってイラン,シリアで勢力を拡大し,13世紀半ばモンゴル軍に滅ぼされた。同派の子孫はホジャ派としておもにインド,パキスタンで商人として活躍している。【黒柳 恒男】。…
【ナクシュバンディー教団】より
…アブド・アルハーリク・グジュドゥワーニー‘Abd al‐Khāliq Ghujduwānī(?‐1179∥80。1220没ともいう)を創設者として12世紀後半以来ブハラを中心に活動を続け,一般にはホジャ派として知られていたが,14世紀にバハー・アッディーン・ナクシュバンドBahā’ al‐Dīn Naqshband(1317‐89)が出現すると,彼の名にちなんでナクシュバンディー教団と呼ばれるにいたった。教義・修行方法は厳格なスンナ主義,シャリーア主義を貫き,黙誦による心のジクルによって神との合一を目指し,他の諸教団にみられるサマー(音曲などを聞きつつ陶酔境に入る修行方法),遊行,独居といった修行方法を禁じ,あくまで民衆と交わりつつ心の内面を鍛練して高い宗教的境地に達することを目指した。…
【ホジャ】より
…トルコ語ではhoca。歴史的用語としては,9~10世紀のサーマーン朝の宮廷ではワジールが大ホジャと呼ばれ,12世紀以降の中央アジアでは,後にナクシュバンディー教団と呼ばれるイスラム神秘主義者たちの一派がホジャ派と呼ばれた。このホジャ派は14世紀以降東トルキスタンにも進出を開始し,17~18世紀にはカシュガルとヤルカンドを本拠に,いわゆるカシュガル・ホジャ家を成立させた。…
※「ホジャ派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」