世界大百科事典(旧版)内の《みかぐらうた》の言及
【天理教】より
…開教後,中山家は没落の一途をたどったが,みきは近隣の農民,職人らに安産と病気なおしのたすけを通じて,親神〈てんりんおう〉の信仰を広めるようになった。幕末,みきは寺院,神社,山伏などの既成宗教からの圧迫を受けたが,これに対抗して神道化を進め,1867年(慶応3)神道家元の吉田家から〈天輪王明神〉として公認され,教義をよんだ数え歌《みかぐらうた》をつくった。明治維新後,教線は河内から大阪に及び,病気なおしなどによる入信者が急増して,各地で講社が育った。…
【中山みき】より
…幕末には周囲の宗教や小講社との対決を通じて,教義と儀礼が急速に整い,67年(慶応3)みきの講社は吉田神道からも天輪王明神として公認された。同年《みかぐらうた》をつくり,親神への信仰によって〈ふしぎなたすけ〉をうけることができ,〈陽気づくめ〉の〈このよのごくらく〉が到来すると説いた。農民の生活に根ざしたみきの教えは,現世での全生活的救済を約束し,ヒューマニズムと平等観を強調することによって,変革期の民衆がもとめる世直しの願望を反映していた。…
※「《みかぐらうた》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」