世界大百科事典(旧版)内のミュンヘン協定の言及
【ソビエト連邦】より
…しかし新路線も,起源からみれば,コミンテルンの自主的判断が一定の役割を果たしたことは確かであったが,実践の過程でソ連外交の必要に適合させられ(たとえばスペイン内乱中の反スターリン左派勢力の粛清),結局は状況を切り開くダイナミズムを失っていった。他方,イギリス,フランスの採った宥和政策の頂点たる38年のミュンヘン協定(ミュンヘン会談)は,ヨーロッパの安全保障システムからのソ連の排除を明らかにした。ソ連外交の方向転換はここに不可避となった。…
【ミュンヘン会談】より
…1938年9月29日,ミュンヘンで開かれたドイツ総統ヒトラー,イギリス首相A.N.チェンバレン,フランス首相ダラディエ,イタリア首相ムッソリーニの四大国首脳会談。翌30日未明,チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツに割譲する,いわゆるミュンヘン協定(日付は9月29日)が締結された。イギリスとフランスがドイツ,イタリアに対してとってきた,弱小国を犠牲にして侵略者と妥協しようとした宥和(ゆうわ)政策のピークであった。…
※「ミュンヘン協定」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」