世界大百科事典(旧版)内のモンディーノの言及
【医学】より
…モンペリエでは,モンドビュHenri de Mondeville(1260?‐1320)が最初の解剖学の教師であったという。こうした草創期から16世紀ころまで,最も広く使われたテキストはボローニャ大学のモンディーノMondino dei Liucci(1270‐1326)の《解剖学》であった。教皇庁のあるバチカンでは1368年,毎年1回公開で人体解剖をおこなうことが定められ,その他の大学でも14世紀から15世紀にかけて定期的におこなわれるようになった。…
【骸骨】より
…12,13世紀ごろ,貴人が遠隔地で死ぬとよく煮て骨だけを故郷に送り,内臓と煮だし汁はその地に葬る風習があって,くり返し禁ぜられたにもかかわらず国王や司教もこの風習に従い,イギリスやフランスでは15世紀にも続けられたという(ホイジンガ《中世の秋》)。ボローニャ大学のモンディーノMondino dei Liuzzi が初めて人体解剖をみずから行い,独立した解剖学書を著して(1316),以後解剖は各医科大学でなされ,骸骨の姿に関する知識はしだいに正確となった。ベサリウスの《人体構造》(1543)に頭蓋骨を持って瞑想するかなり正確な骸骨の図があり,シェークスピアは《ハムレット》の墓地の場を書くのにこれを念頭においたという。…
【解剖学】より
…イタリアのボローニャ大学のタッデオ・アルデロッティThaddeo Alderotti(Thaddaeus Florentinusとも呼ばれる)が解剖の初めに関与しているといわれるが詳細は明らかでない。その弟子のモンディーノが自分の手で解剖し,解剖学を系統立てたことは確実である。彼は3体を解剖し1316年に《解剖学Anothomia》を著した。…
【解剖図】より
…このことは,日本の平安時代末や西欧中世末の,腐乱死体や骸骨によって表現された死の観念が医学や解剖学と無関係であったことに対応する現象であろう。14世紀の初めボローニャ大学で解剖学がおずおずと再出発し,その代表者モンディーノの解剖書は,まだガレノス説にとらわれているが,16世紀まで教科書として用いられた。例外的な写本を除くとその解剖書に簡単な図が挿入されるのは15世紀末からであった。…
【ボローニャ大学】より
…法科以外の学生は医科・教養諸科の組合を形成して,法科と類似の組織を有したが,優勢な法科組合に従属させられていた。 14世紀には近代解剖学の父と呼ばれたモンディーノに代表される医学の名声が高まるにつれて,医科・教養諸科の組合は法科から独立して,ボローニャ医学は中世医学史に重要な位置を占めることとなった。神学は実用的学問が重視されたイタリア大学に位置を占めるのが遅く,ボローニャでは1364年に神学科が加えられた。…
※「モンディーノ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」