世界大百科事典(旧版)内のライツ,E.の言及
【ニュー・ジャーマン・シネマ】より
…この歴史的な〈オーバーハウゼン宣言〉が〈ニュー・ジャーマン・シネマ〉の出発点になった。アレクサンダー・クルーゲAlexander Kluge(1932‐ ),ペーター・シャモニPeter Schamoni,エドガー・ライツEdgar Reitzらがグループの中心で,新しいドイツ映画の創造のためには〈新しい自由〉が必要であるとして,政府と映画企業に対して,新人監督への門戸開放,処女作への経済的援助および保障,新しい才能を育成するための映画学校の開設などを要求。それに答える形で,連邦政府は映画産業助成対策を強化,それに伴うテレビ局の意欲的な映画製作援助,映画館の近代化(のちにフランス語でシネマ・コンプレクス(複合映画館)と呼ばれる新しい小劇場に改築)による若い観客層の動員,映画学校の開設(1966年から68年にかけてミュンヘンに〈映画テレビ大学(HFF)〉,ベルリンに〈ドイツ映画テレビ・アカデミー(DFFB)〉が創設された)といった政策が効を奏し,65年には〈若いドイツ映画委員会〉が設立されて,実際に〈オーバーハウゼン・グループ〉の何人かのメンバーが長編劇映画の製作にとりかかることができる状況をつくり上げるまでに至る。…
※「ライツ,E.」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」