世界大百科事典(旧版)内のリオ・デ・ラ・プラタ諸州連合の言及
【アルゼンチン】より
…だが,首都への反感などから,今日のパラグアイ,ウルグアイ,ボリビアの諸地域は委員会の権威を認めず,自治政府と戦端を開いた。この戦争が結果的に上述の諸地域をアルゼンチンから分離・独立させることになるのだが,副王領内の多くの州は16年7月9日トゥクマン市で開かれた議会でリオ・デ・ラ・プラタ諸州連合の独立を宣言し,独立戦争の遂行をサン・マルティンJosé de San Martín将軍にゆだねた。サン・マルティンは18年にチリ,21年にペルーをスペイン支配から解放するが,その間にアルゼンチンでは,中央集権派と連邦派の対立が激化し,20年後者の勝利は統一的な中央政府を瓦解させた。…
【トゥクマン】より
…市内には,繊維,電子機器,トラクター,製菓,飲料などの工場があり,工業も発展を遂げつつある。北西部地方の政治・文教の中心地で,1816年にアルゼンチン(当時のリオ・デ・ラ・プラタ諸州連合)の独立を宣言した会議場が市内に残されている。1875年に設立され,一時廃校となったのち1914年に再建されたトゥクマン大学は,全国でも屈指の総合大学である。…
【リバダビア】より
…ブエノス・アイレス生れ。1806年イギリスの侵略軍と戦い,独立運動,建国の指導者としてブエノス・アイレス市主導の中央集権主義派を指導し,26年リオ・デ・ラ・プラタ諸州連合の初代大統領に就任。ヨーロッパの自由主義を範として文民主導の政治改革,司法・教育・医療制度を整備し国の近代化をめざしたが,中央集権主義派と連邦主義派との抗争のなかで翌年失脚。…
※「リオ・デ・ラ・プラタ諸州連合」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」