世界大百科事典(旧版)内のル・シッド論争の言及
【古典主義】より
…その文化政策であるアカデミー・フランセーズ創設(1635)や文人,芸術家の庇護は,上からの改革として古典主義の確立に大きな役割を果たし,アカデミー・フランセーズの中心人物シャプランJean Chapelain(1595‐1674)は,16世紀以来のイタリア人文学者を中心とするアリストテレス《詩学(創作論)》の読解を受けて,古典主義の理論的基準となる規則論を確立する。1637年初演のP.コルネイユの悲喜劇《ル・シッド》をめぐるアカデミー側と作者側の規則論議(いわゆる〈ル・シッド論争〉)は,40年代のコルネイユ自身の〈規則にかなった悲劇〉(《オラース》《シンナ》《ポリュークト》)の制作と成功によって,実践の領域へと超えられていく。もっとも絶対王政成立にとって最も大きな試練であったフロンドの乱の前後には,リシュリューの後を継いだイタリア人の宰相・枢機卿J.マザランによるイタリア・オペラの導入をはじめ,バロック的なものが隆盛を誇る。…
【コルネイユ】より
…やがて1637年初頭,悲喜劇《ル・シッド》が初演されると,熱狂的な歓迎を受け大評判となった。ところがこの画期的成功をねたむ劇作家たちから三統一の規則への違反,盗作と非難され,ここに〈ル・シッド論争〉が起きた。3年間沈黙したのち,今度は規則に合致した三大意志悲劇の傑作,祖国愛を扱う《オラース》(1640),寛容を説く《シンナ》(1642),殉教を語る《ポリュークト》(1642)を発表,不滅の地位を築いた。…
※「ル・シッド論争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」