世界大百科事典(旧版)内のローマ問題の言及
【ラテラノ協定】より
…1929年2月11日ラテラノ宮殿においてイタリア王国首相ムッソリーニと教皇庁国務長官ガスパリ枢機卿とのあいだに調印された協定。これにより,1870年イタリア軍がローマを占領して以来50年余り続いた国と教会の対立(ローマ問題)に終止符が打たれた。協定は〈聖座・イタリア間条約〉と〈政教協約(コンコルダート)〉からなり,前者には〈財務協定〉を含む4付属文書が添付された。…
【ローマ[市]】より
…サンタ・マリア・マッジョーレ教会,クイレナーレ宮殿,1862年に建設された旧終着駅(現在の駅前広場)などは,市街地のはるかかなたに孤立していて,まわりにわずかな民家を集めていたにすぎない。
[首都ローマの発展]
教皇ピウス9世は,イタリア国王の保障法を認めず,自ら〈バチカンの囚われ人〉になった旨を宣言して,イタリア王国と対立し,ここに1929年ラテラノ協定によって解決されるまでの〈ローマ問題〉が生じた。すでにイタリア王国では,1866年および67年の法律によって,教会財産を没収することが決定されていたが,ローマ市にこれが適用されたのは73年6月のことである。…
※「ローマ問題」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」