世界大百科事典(旧版)内のワシーリー・ブラジェンヌイの言及
【ユロージビー】より
… ロシアにおいては,アンドレアス・サロスの事跡がキリスト教の公的受容とともに知られていたが,最初のユロージビーは11世紀後半のキエフ洞窟修道院の修道士イサアク・ザトボルニクIsaak Zatvornikとされている。その後しばらく伝統が絶えるが,16世紀はユロージビーの活動が最も目だった時期であり,特にモスクワのワシーリー・ブラジェンヌイVasilii Blazhennyi(1469‐1552)の名がよく知られている。ワシーリーは没後約20年後にイワン4世のもとに現れ,悪行を責めたとの伝説も伝わっている。…
【ワシーリー大聖堂】より
…正式の名称はポクロフスキー大聖堂Pokrovskii sobor chto na rvu。通称のワシーリー・ブラジェンヌイはその北東隅に1588年に増築された聖ワシーリー(バシリウス)の祭室に由来する。ロシア特有の高さ約46mの塔状の主屋の周囲に,同じく塔状の8祭室を配置し,平屋建ての廊下で連絡した特異な形の教会堂で,創建当初は色彩も形態も簡素であったが,17世紀にドームをねぎ坊主形に変え外周の廊下に尖頂屋根を加え,華やかな塗装がほどこされた。…
※「ワシーリー・ブラジェンヌイ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」