わび茶(読み)わびちゃ

世界大百科事典(旧版)内のわび茶の言及

【安土桃山時代美術】より

…政治史上の桃山時代は約30年間,文化史では少し間をとって1615年(元和1)を下限とする。いずれにせよ,半世紀に満たない期間であるが,造形美術の分野の活動は活発を極めた。織田信長,豊臣秀吉ら新しく興った強力な集中的権力が,壮大な城郭や殿舎・寺院を相次いで造営させ,絵画・工芸のあらゆる分野がその荘厳のために動員されたことが,この時代の美術に活況をもたらした大きな原因である。 桃山時代の美術の特色をいくつかあげると,第1に,気宇の大きさ,見るものの感覚に強く働きかけるモニュメンタルな性格があげられる。…

【数寄】より

…茶の湯を意味する言葉。平安時代には,〈好く〉の連用形である〈好き〉は色好み,あるいは風流文雅を好むこと,の意味であった。鎌倉時代に入ると,色好みとは区別して〈数寄〉という文字が使われるようになったが,それはもっぱら歌道の風流を意味する語として用いられていた。数寄が茶の湯を対象とするようになったことを示す早い例は,歌論集《正徹物語》(1444‐52ころ成立)であり,歌数寄に対して〈茶数寄〉という語が用いられている。…

【千利休】より

…利休の息子には先妻との間に生まれた道安(千道安),後妻宗恩の連れ子少庵があり,少庵(千少庵)とその子宗旦(千宗旦)の家系に,利休死後数年を経て千家の再興が許され,今日の千家の茶道の源流となった。 利休の茶の湯は町衆の間に発達したわび茶の伝統をうけつぎ,茶会と点前(てまえ)形式の完成,独創的な茶室と道具の創造,茶道の精神性の深化という面で,現代の茶道の型を定立した。まず,従来の茶会が饗宴的な遊興性が強かったのに対し,懐石といわれる料理の簡素化をはかり,茶会の趣向にわびの美意識を貫いた。…

【大徳寺】より

…京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派の大本山。山号は竜宝山。開山は大灯国師宗峰妙超(しゆうほうみようちよう)である。1315年(正和4),妙超が赤松則村の帰依を受けて,雲林(うりん)院の旧地に小堂を建てたのが当寺の草創であるという。そののち花園・後醍醐両帝の厚い外護(げご)のもと,妙超は寺域を拡大し,24年(正中1)禅苑として堂舎を整え,竜宝山大徳寺と号した。翌25年花園天皇の勅願寺となり,33年(元弘3)には後醍醐天皇の祈願所となって〈本朝無双之禅苑〉なる勅額を下賜され,五山の第1に列せられた。…

【茶道】より

…これらの要素が総合的に表現されるのは茶会という一種の宴会,すなわち寄合の場で,その意味では茶道は最も洗練された宴会の一様式ということもできよう。茶道の様式は16世紀に〈わび(侘)茶〉として千利休により完成された。 従来,茶道を日本的な総合芸術ととらえたり,あるいは禅の思想に立脚する儀礼と考えるなど,さまざまな見方があったが,西欧的な芸術の概念では茶道を十分に把握することはむずかしい。…

【茶道】より

…これらの要素が総合的に表現されるのは茶会という一種の宴会,すなわち寄合の場で,その意味では茶道は最も洗練された宴会の一様式ということもできよう。茶道の様式は16世紀に〈わび(侘)茶〉として千利休により完成された。 従来,茶道を日本的な総合芸術ととらえたり,あるいは禅の思想に立脚する儀礼と考えるなど,さまざまな見方があったが,西欧的な芸術の概念では茶道を十分に把握することはむずかしい。…

【村田珠光】より

…わび茶の開祖。南都の杢市検校の子として生まれたとされる。…

※「わび茶」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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