クチュム・ハーン(読み)くちゅむはーん

世界大百科事典(旧版)内のクチュム・ハーンの言及

【エルマーク】より

…ドン川地方出身ともカマ川地方出身とも言われ,最初はボルガ川を航行する船を襲う略奪コサック団の首領だった。イワン4世の特許状を得てシベリア開発に着手していた企業家ストロガノフ家に雇われ,1577年ころ多くのコサックとともにカマ川上流の要塞に行き,一家の所領をシビル・ハーン国のクチュム・ハーンの攻撃から守る仕事に就いた。79年(一説に81年)にはコサック隊を率いて本格的なシベリア征服遠征に出発し,ついにイルティシ河畔の激戦でクチュム・ハーンの軍に決定的打撃を与え,82年10月にハーン国の首都シビルを占領した。…

【シビル・ハーン国】より

…16世紀の後半に入ると東方に拡大するロシアと直接境を接するにいたり,1582年にはエルマークの率いるコサック部隊によって首都を占領された。その後もクチュム・ハーンQuchum Khān(1600没)のもとに抵抗を続けたが,98年決定的な敗北を喫し,シビル・ハーン国の領域はロシア帝国の領土に編入された。なお,シベリア(ロシア語でシビルSibir’)の名は,このハーン国の国名に由来する。…

【タタール】より

… 1552年,ロシアのイワン4世(雷帝)がカザンを占領し,58年にカザン・ハーン国全土を併合するに及んで,これら諸族はロシア帝国の支配下に組み入れられた。このころ,西シベリアでは,モンゴル系のクチュム・ハーンが,トルコ・モンゴル諸族を征服してトボリスクに近いシビルを中心にシビル・ハーン国をつくり,ロシア人植民地を攻撃してイスラムを広めるなど,一時は勢力をのばしたが,コサックの首長エルマークの強襲をうけたのち,ロシア軍に敗れて殺害され,ハーン国も滅んでロシアのシベリア侵攻が始まった。しかし,タタールはその他の原住民と同様に,ロシア人植民者,軍隊,教会勢力に対する抵抗をやめず,ロシア政府は各地に要塞を築き,防備線を強化しなければならなかった。…

※「クチュム・ハーン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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