コンスタンティヌス・アフリカヌス(読み)こんすたんてぃぬすあふりかぬす

世界大百科事典(旧版)内のコンスタンティヌス・アフリカヌスの言及

【アリー・ブン・アルアッバース】より

ラージーの流れを汲み,彼の《包含の書》に比すべき医学百科として《王の書》を著す。20巻約40万語からなる同書はコンスタンティヌス・アフリカヌスConstantinus Africanus(1020ころ‐87ころ)によりラテン語訳され,《Liber regius》として西洋世界に伝わった。【五十嵐 一】。…

【サレルノ大学】より

…9世紀にはすでに著名な医師が存在し,10世紀にはフランス,イギリスの王族が治療のために訪れるほどの名声を博していた。11世紀末にコンスタンティヌス・アフリカヌスによってそれまでギリシア・ローマ医学を伝統としたサレルノにアラビア医学がもたらされ,12世紀には《サレルノ養生訓Regimen sanitatis salernitanum》など,後に全ヨーロッパに流布した医学著作が多数生み出されて,この医学校は医学の全ヨーロッパ的中心となった。また,ここで作成された医学教育のカリキュラムは,パリをはじめとする中世大学の医学教育に導入されて,後世まで影響を与えた。…

【中世科学】より

… 10世紀になるとアラビア科学との接触がはじまり,のちに教皇シルウェステル2世となるオーリヤックのジェルベール(ゲルベルトゥス)はカタルニャの地でアラビア学術に接し,これをもってフランスで多くの弟子を教え,大きな影響を与えた。またコンスタンティヌス・アフリカヌスConstantinus Africanusはアフリカの地でアラビア医学を学び,それを翻訳し,サレルノの医学校の興隆を大いに刺激した。しかしなんといっても,西欧世界がギリシア,アラビアの学術を本格的に受け入れるのは,12世紀に入ってからである。…

※「コンスタンティヌス・アフリカヌス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」