シッフィーンの戦(読み)しっふぃーんのたたかい

世界大百科事典(旧版)内のシッフィーンの戦の言及

【ハワーリジュ派】より

…過激で非妥協的な行動により,第4代カリフのアリーとウマイヤ朝の支配体制を混乱させる一方,宗教・思想の面では,カリフの資格とムスリムの罪の問題を初めて提起した。657年のシッフィーンの戦で,アリーとムアーウィヤ1世の双方が調停によって事態の収拾を図ろうとした時,人間による調停に反対したアリー軍の一部の者が〈判決は神にのみ属する〉を合言葉にアリーのもとを去り,クーファの近くのハルーラーに集まった。彼らはハルーリーヤ(ハルーラーに集まった者),またはムハッキマ(判決は神にのみ属すると主張する者)と呼ばれた。…

【ムアーウィヤ[1世]】より

ウマイヤ朝の創建者でその初代カリフ。在位661‐680年。父は預言者ムハンマドに敵対したメッカのクライシュ族ウマイヤ家の指導者アブー・スフヤーン。633年の秋,異母兄ヤジードの軍に従ってシリア征服に向かい,639年,ヤジードの死で,ウマル1世によりシリア総督(アミール)に任命された。ウスマーンのカリフ就任後は,地中海に進出するなどしてシリアでの支配を固めた。656年にウマイヤ家出身のカリフ,ウスマーンが殺されると,その血の復讐を叫んで4代カリフ,アリーと対決した。…

※「シッフィーンの戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」