世界大百科事典(旧版)内のシュルレアリスム国際展の言及
【シュルレアリスム】より
…すでに世界各地に多くの同調者を得て,運動は国際的規模に広がりつつあったが,32年にアラゴンが脱退してのち,ナチスの脅威のもとに,しだいに苦しい活動を強いられるようになる。美術雑誌《ミノトールMinotaure》への協力(1933‐38),コペンハーゲン,テネリーフェ,ロンドンにおける〈シュルレアリスム国際展〉の開催(1935,36),トロツキーとの連帯(1938)を経て,第2次大戦勃発とともにブルトン,ペレら中心メンバーは新大陸に亡命し,アメリカ,メキシコなどで活動を継続する。彼らは大戦後パリに戻り,《ネオンNéon》(1948),《メディオムMédium》(1952),《シュルレアリスム・メームSurréalisme même》(1956)等の機関誌を次々に創刊し,またパリにおける3度の〈国際展〉(1947,59,65)を通じて,若い世代の参加による新しい展開を見る。…
※「シュルレアリスム国際展」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」