バルコン,M.(読み)ばるこん

世界大百科事典内のバルコン,M.の言及

【イギリス映画】より

…(6)M.パウエルとE.プレスバーガーが1943年に設立した〈アーチャーズThe Archers〉では,《天国への階段》(1946),《黒水仙》(1946),《赤い靴》(1948)など,名コンビとうたわれたパウエル=プレスバーガーの製作・監督・脚本によるテクニカラー諸作品。(7)1938年以降,バルコンMichel Balcon(1896‐1977)が主宰した〈イーリングEaling〉では,のちに〈バルコン・タッチ〉〈イーリング・コメディ〉などの名称で呼ばれることになるさまざまな映画作家たちの作品群。 こうして40年代後半から50年代にかけて,イギリス映画史上空前の優秀作がにぎわったのである。…

【カバルカンティ】より

…ブラジル出身の映画作家,プロデューサー,シナリオライター,美術監督。世界の映画史に残した足跡は大きく,まずフランスでは1920年代に,マルセル・レルビエ監督《人でなしの女》(1923),《生けるパスカル》(1925)の美術・セットデザイナーおよびアバンギャルド映画(《時の外何物もなし》1926,《港町にて》1928,等々)の監督として活躍,次いでイギリスでは,ロンドンのGPO(イギリス郵政局)映画班でジョン・グリアソンの片腕としてプロデューサー兼監督になり,《コール・フェイス》(1935),《北海》(1938)といった作品を撮って1930年代のイギリスのドキュメンタリー映画運動の一翼を担い,40年代にはイーリング撮影所でマイケル・バルコンの共同プロデューサー兼監督として,のちの〈ハマー・プロ〉の作品を予告するようなオムニバス構成の怪奇映画《真夜中》の〈もっとも身の毛のよだつ〉エピソード(《腹話術師のダミーとクリスマス・パーティー》)やディケンズ原作の《悪魔の寵児》(1946)をみずから撮る一方,イギリスの映画音楽の基礎をつくり(例えばベンジャミン・ブリテンといった現代音楽の作曲家を初めて映画に導く等々),49年には帰国してブラジル映画の復興に貢献し(1953年のカンヌ映画祭でアクション映画賞,音楽賞を受賞してブラジル映画の名声を国際的に高めた《野性の男》の製作に参加),その後,50年代半ばに再びヨーロッパに渡って,東ドイツ,オーストリア,イタリアで監督として活躍。東ドイツ映画《プンチラ親方と徒弟のマッティ》(1955)は,原作者のベルトルト・ブレヒトと共同で脚色。…

【ドキュメンタリー映画】より

…12年にはイギリスのハーバート・G.ポンティングがロバート・スコットの南極探険隊に同行して1時間30分の記録映画《スコットの南極探険隊》を撮って反響を呼んだが(のち1933年には《南緯九十度》の題でまとめた),それらは〈紀行映画〉と呼ばれ,いわゆる〈ドキュメンタリー〉の先駆は,フラハティがエスキモーのきびしい日常生活のたたかいを描いた《極北の怪異》(1922)とされる。フラハティはハリウッドのメジャー会社パラマウントに注目されて《モアナ》を撮り,つづいてW・S・バン・ダイク監督の《南海の白影》(1928)とF.W.ムルナウ監督の《タブウ》(1931)という2本の〈劇映画〉に協力させられるが,ハリウッドの商業主義と折り合いがつかず,イギリスに渡り,プロデューサーのマイケル・バルコンに完全な自由をあたえられて,北アイルランドのアラン諸島の孤島できびしい自然とたたかう人間の生活を描いた《アランMan of Aran》(1934)をつくり,ドキュメンタリーの先駆的開拓者としての業績によって,〈ドキュメンタリーの父〉と評されるに至った。
[第2次大戦前のドキュメンタリー]
 アメリカでは,フラハティの作品のほか,のちに特撮怪獣映画《キング・コング》(1933)を製作するメリアン・C.クーパーとアーネスト・B.シェードサックのコンビが,遊牧イラン民族を描いた《地上》(1926)やタイの稲作農民を描いた《チャング》(1927),探険家マーティン・E.ジョンソン夫妻が野獣の生態を撮影した《アフリカ遠征》(1923)などがつくられた。…

※「バルコン,M.」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報

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