世界大百科事典(旧版)内のピエールフォン城の言及
【城】より
…人類の発生以来争闘は絶えることなく,定住生活が始まるとともに外敵の侵入に対する防御が必要とされたが,集落が形成されると集落単位で柵や環濠を設けたことが知られる。日本でもすでに弥生時代の集落址にこうした例が多くみられ,これらがのちの城郭の先駆的形態と考えられる。しかし整備された城が特に必要とされるのは都市や国家の成立に伴ってであり,他の国家・種族の襲来に備えることはもちろん,領内の被支配者からの攻撃に備えて城を営むことも,世界各地で近世まで行われた。…
【ビオレ・ル・デュク】より
…ついで老練の建築家ラッシュスJean‐Baptiste Lassusとともに,1845年よりパリのノートル・ダム大聖堂の修復工事を担当してその地位を固めた。その後,文化財保護委員会委員,宗務省の建築技監として活躍し,シャルトル,ランス,アミアンなどの大聖堂やカルカソンヌ市の城壁,ピエールフォン城(ナポレオン3世の命による)などの修復に当たった。現在ではしばしば厳しい批判をうけているが,工芸にまで及ぶ広い知識に裏づけられた,当時としてはきわめて進歩的な修復方法により,彼は多数の中世建築の保存に成功し,文化財保護事業の技術的基礎を確立した。…
※「ピエールフォン城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」