ベルトフ,D.(読み)べるとふ

世界大百科事典(旧版)内のベルトフ,D.の言及

【映画】より

…例えば,〈十月革命〉とともに生まれたソビエト映画が,〈あらゆる芸術のなかで,われわれにとって最も重要なものは映画である〉〈ソビエトの現実を映し出す新しい映画作品の創造は,まずニュース映画からはじめなければならない〉というレーニンの宣言とその精神に即して発展したことはいうまでもない。政府の支持の下に,クレショフの映画実験工房やジガ・ベルトフの実験的記録映画〈キノ・グラス(映画眼)〉運動が推進されたのである。 ナチス・ドイツの宣伝相ゲッベルスがいち早く〈映画局〉を設置し,クラカウアーによれば〈戦争が起るとすぐに,ドイツ宣伝省は,ニュース映画を戦争宣伝の効果的な道具にするために,可能なあらゆる手段を用いた〉ことも重要な映画史的事実である。…

【シネマ・ベリテ】より

…《カメラをもつ男/これがロシアだ》(1920)で知られるロシアの前衛的記録映画作家ジガ・ベルトフが1922年に,大新聞《プラウダ》に対して自分の撮るニュース映画はその付録として〈映画(キノ)に撮られた新聞〉であるという意味で〈キノ・プラウダ〉と名づけたが,フランスの映画史家ジョルジュ・サドゥールがこれをフランス語に直訳し(キノ=シネマ=映画,プラウダ=ベリテ=真実),1950年代後半から60年代にかけて台頭したフランスの新しいドキュメンタリー映画,とくにアフリカを舞台に活躍していた人種学者ジャン・ルーシュの一連の作品に与えた名称である。なかでも,黒人たちに彼ら自身の現実の生活を〈演じ〉させ,スクリーンに再現させた《私は黒人》(1959)は,かつてロバート・フラハティが《極北の怪異(ナヌーク)》(1922)で試みた方法を推進し,体系化して,〈人間の真実を現実の磁場で生々しくとらえる〉というシネマ・ベリテの最初の傑作として評価された。…

【ドキュメンタリー】より

…ロバート・フラハティがエスキモーの日常生活を描いた《極北の怪異Nanook of the North》(1922)は,初期ドキュメンタリーの代表作である。〈映画―真(Kino―Pravda)〉,〈映画―眼(Kino―Glaz)〉を唱えたソ連のジガ・ベルトフは,フィクションをいっさい排して,客観的なカメラの眼によって現実に向かうことを主張した。ベラ・バラージュはドキュメンタリーを〈人類の年代記〉だという。…

【ドキュメンタリー映画】より

… ソ連では,1917年の10月革命につづく内戦のなかで,映画は〈文化革命の武器〉として評価され,〈アギトカ(宣伝映画)〉や〈フロニカ(記録映画)〉と呼ばれる短編ドキュメンタリーがつくられた。内戦後の建設の時期を迎えてからは,さらにビクトル・トゥーリン監督のトルキスタン・シベリア鉄道の建設を描いた長編《トゥルクシブ》(1929)がつくられ,ジガ・ベルトフ(1896‐1954)は,〈キノ・グラスKino Glaz(映画眼)〉理論を展開してカメラが写しとる直接的な対象だけを〈真実〉とみなし,そのモンタージュからドキュメンタリーが生まれることを主張した。ベルトフの〈映画眼〉理論はイギリスに大きな影響をあたえ,ドキュメンタリーは生活そのもののなかから選びだせる新しい芸術形式であると考える〈英国ドキュメンタリー〉派が生まれた。…

【プドフキン】より

…ソビエトの映画監督,理論家。セルゲイ・エイゼンシテイン,アレクサンドル・ドフジェンコ(1894‐1956),ジガ・ベルトフ(1896‐1954)と並んでソビエトのサイレント映画の4大監督の1人に数えられ,モンタージュ理論の確立に寄与した映画理論家として知られる。 革命直後のモスクワでD.W.グリフィス監督の《イントレランス》(1916)を見て映画作家を志し,モスクワの国立映画学校(1919年に開校)に入る。…

※「ベルトフ,D.」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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