世界大百科事典(旧版)内のボロマコート王の言及
【アユタヤ朝】より
…しかしペトラーチャー(在位1688‐1703)のクーデタ以後,アユタヤと西欧諸国との関係は冷却した。バーンプルールアン王家は,ボロマコート王(在位1733‐58)のとき学芸大いに栄え,仏教についてもセイロンに使節を派遣して衰微したサンガを再興させるなど,名声は海外に響いたが,その後衰退し,1767年ビルマ軍の侵略を受けて王国は滅亡した。【石井 米雄】
[美術]
王都アユタヤを中心に栄えた美術は,一般に〈国民美術の時代〉といわれる。…
【タイ】より
…ナライ王(在位1656‐88)はベルサイユ宮廷へ使節を派遣した王として知られている。アユタヤ朝は,バーンプルールアン王家のボロマコート王(在位1733‐58)の治世下に学芸がおおいに栄え,仏教使節をセイロンへ派遣して衰微した首都キャンディに戒壇を復興させるなど,仏教国アユタヤの名声は海外にも響いたが,王の死後,後継者を得ず,1767年ビルマの侵攻を受けて滅亡し,アユタヤは416年の歴史の幕を閉じた。
[ラタナコーシン朝]
アユタヤ朝滅亡後ただちにビルマ軍を撃退して1767年みずから王位についたタークシンは,徹底的に破壊された王都アユタヤの再建をあきらめ,より河口に近いトンブリーに新たな都を開いた。…
※「ボロマコート王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」