世界大百科事典(旧版)内の一億総懺悔の言及
【戦争責任】より
…連合国の戦争責任追及政策は〈開戦責任〉が基調となっていたが,当初の日本側の受止め方は〈敗戦責任〉が多かった。日本敗戦直後の東久邇稔彦内閣は〈一億総懺悔(ざんげ)〉による天皇への敗戦の謝罪を唱え,また国民の多くも敗戦の悲惨と戦後の苦境をもたらした軍部,官僚など戦争指導者を怨嗟(えんさ)する敗戦責任論に共感した。その後,東京裁判の公判とともに戦争指導者の開戦責任が焦点となったが,戦争の被害者の側面だけでなく,アジアの民衆に対して加害者の立場にあった国民の主体的な戦争責任問題も提起された。…
【対日占領政策】より
…ポツダム宣言受諾とともに鈴木貫太郎内閣が総辞職し,皇族の一員である陸軍大将東久邇宮稔彦王が内閣を組織した。東久邇内閣は国民に対し〈承詔必謹〉と〈国体護持〉を説き,天皇制支配の維持に努めるとともに,〈一億総懺悔(そうざんげ)〉を主張して国民からの戦争責任の追及を免れようとした。これに対しGHQは,1945年9月19日〈自由な新聞のもつ責任とその意味を日本の新聞に教えるものである〉とするプレス・コード(言論統制)を発表し,さらに10月4日,〈自由制限の撤廃についての覚書〉を出し,天皇に対する批判の自由,政治犯の釈放,特高警察の廃止,山崎巌内相の罷免などを命じ,東久邇内閣はこの衝撃で総辞職した。…
※「一億総懺悔」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」