世界大百科事典(旧版)内の丁若鍾の言及
【辛酉教獄】より
…時派には老論の一部も含まれていたが,南人時派には天主教徒が多かったので宗教弾圧に発展し,1801年2月22日禁教令が出されるにいたった。4月,信徒の李承薫(朝鮮最初のクリスチャン),丁若鍾(実学者として有名な丁若鏞の三兄),崔必恭,洪楽敏,洪教万,崔昌顕らが処刑され,李家煥,権哲身らは獄死した。丁若鏞と彼の次兄の若銓は流刑に処された。…
【丁若鏞】より
…文章,経史に卓越したばかりでなく西学(洋学)の造詣も深く,正祖に城制改革案を上疏,スイス人テレンツP.J.Terrenzの《奇器図説》を参照して作成した《起重架図説》を国王に献呈し,水原城の築造工事には,これによって製作した滑車や鼓輪を利用した。彼は西洋の科学技術面だけでなく,思想的にも天主教(カトリック)に傾倒し,1801年の天主教弾圧事件(辛酉教獄)では長兄丁若鍾は杖殺され,次兄の丁若銓は黒山島,彼は全羅道康津に流配された。500余巻にのぼる彼の著作は,康津での18年間の流配期と,その後の晩年に完成したものである。…
※「丁若鍾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」