世界大百科事典(旧版)内の三大内の言及
【宮廷】より
…ところが,太極宮(西内)の地域が湿度の高い悪条件の場所だったので,太宗のときに東北の地に大明宮(東内)をたて,さらに玄宗のときには皇城の東の方に作られた興慶宮(南内)が事実上の宮城となった。これらを総称して三大内と呼んだ。宋の宮殿も唐制をつぐが,いわゆる征服王朝であった遼の上京と金の上京は,本城に接続して漢城を設け東を正面にしたし,元の大都では宮城が南端近くにあってモンゴルの風習に従うところが多かった。…
【長安】より
…太極宮は宮中の正殿で皇帝の居住する宮,東宮は皇太子の居住する宮,掖庭宮は皇妃,宮女などの居住する宮である。ただ高宗のときから皇帝は城の北東の大明宮に居住するようになったため,太極宮は西内,大明宮は東内と呼ばれ,玄宗のときに興慶坊につくられた興慶宮の南内とあわせて三大内と呼ばれた。太極宮は南面中央に承天門があり,この門で詔令を発布したり赦宥(しやゆう)を行ったりするので前朝と称されたが,この門の次に嘉徳門があり,つづいて太極殿に達する。…
※「三大内」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」