世界大百科事典(旧版)内の三度の諫暁の言及
【日蓮】より
…日蓮は佐渡で胚胎していた〈真言亡国〉の考えから,蒙古調伏に密教を重用することのないよう警告した。この警告と《立正安国論》提示,および1271年逮捕当時の頼綱への警告の三つを〈三度の諫暁〉と呼んでいるが,これもまた採択されず,挫折感を抱いた日蓮は流浪の旅に出て,甲斐国身延に一時期のつもりで滞在したが,同年蒙古が襲来したこと,しだいに門弟の往還が盛んになったこと,弟子育成のことなどもあり,結局82年(弘安5)示寂の年まで身延に在住した。この間,日蓮は《撰時抄》《報恩抄》を書くとともに遠近の信奉者に書状による信仰の教導を行った。…
【立正安国論】より
…こうした浄土教徒との葛藤や,《安国論》に結果的ではあるが政治批判もみられるところから,日蓮の意図は実現されず,かえって1261年(弘長1)5月,伊豆伊東に流謫(るたく)され,3年の流人生活を強制された。後年,日蓮はその生涯において〈三度の諫暁(警告)〉を行ったとし,これを自己の高名としたが,《安国論》提示をその最初としている。【高木 豊】。…
※「三度の諫暁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」