世界大百科事典(旧版)内の三栄綿布組合の言及
【大阪紡績会社】より
…翌年,イギリス帰りの山辺丈夫を工務支配人とし,蒸気機関による1万500錘,労働者300人弱という当時最大の規模で開業し,電灯を設備しての昼夜二交替制のフル操業で好成績をあげ,80年代後半の紡績ブームを呼び起こした。90年大阪織布を買収して紡績兼営織布会社となり,1906年には三重紡績,金巾製織と三栄綿布組合を結成して三井物産と提携し朝鮮の粗布市場を独占し,同年結成の満州(中国東北)向けの日本綿布輸出組合にも参加した。同年金巾製織,07年白石紡績所を買収・合併したが,14年6月,ともに渋沢との関係が深く製品面でも類似していた三重紡績と合併し,東洋紡績となった。…
【紡績業】より
…
[初期の紡績業]
各種の繊維から糸を紡ぐ産業のことであるが,代表的なのは綿糸紡績業である。江戸時代までの綿糸は手紡ぎによって生産され,紀伊,淡路などの特産地も形成されたが,一般には製織と結合した形で農村家内工業として営まれ,その従事者は数百万人に上ったと推定される。開港後,イギリス品を中心とする良質,安価な綿糸布の輸入によって,手紡ぎの衰退と生産性の高い機械制工場建設の動きが始まった。まず薩摩藩が1867年(慶応3)イギリス製機械による鹿児島紡績所を鹿児島に開設した。…
【綿織物業】より
…また97年には豊田佐吉が木製の力織機を完成,その後これを鉄製に改良,日本の綿織物業の発展に大きく寄与した。しかし粗布などの綿布は軍需以外に内需を見いだせず,中国・朝鮮への輸出に向けられ,その動きは1906年結成の三栄綿布組合(朝鮮向け),日本綿布輸出組合(〈満州〉向け)によって強められ,その結果,綿布輸出は09年に輸入を超え,11年には中国市場においてアメリカを抜いてイギリスに次ぐ地位を占めた。大阪,愛知などの機業地において量的に拡大してきた問屋制家内工業は,20世紀に入ると農家織賃上昇と紡績業の操業短縮による綿糸価格の硬直化とによって破綻(はたん)をきたした。…
※「三栄綿布組合」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」