世界大百科事典(旧版)内の三田渡の言及
【仁祖】より
…親明外交を標榜し,後金(清)の侵入を受け,いったん和議を結んだが,1636年に再び侵入された。王は南漢山城へ避難し,廷臣の斥和派と主和派の対立の中で,みずから城を出てソウル近郊漢江べりの三田渡で降服し,清に対して君臣の礼をとった(丙子の乱)。この戦乱で国力は再び衰え,党争も激化したが,一方,人質となった昭顕世子らによって清から西洋文物がもたらされた。…
【丙子の乱】より
…仁祖は一族を江華島に避難させたが,彼自身は退路をふさがれ,首都漢城の南,広州の南漢山城に逃れた。しかし翌年1月,南漢山城を完全に包囲された仁祖は清軍に投降し,首都の南西,漢江岸の三田渡に設けられた受降檀において清太宗に臣従を誓わせられ,39年には同所に清帝をたたえる〈大清皇帝功徳碑〉を建てた。これ以後,日清戦争後の下関条約締結(1895)まで,朝鮮は清に臣礼をとるのである。…
※「三田渡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」