世界大百科事典(旧版)内の中道連合政権構想の言及
【中道】より
…日本で中道勢力をめぐる論議が盛んになってきたのは,1970年代後半以来の1955年体制崩壊期においてで,〈55年体制〉下の保守・革新の二分法的政治勢力配置状況のなかで,その中間に立つ第三勢力として台頭してきた諸政党が中道勢力と呼ばれてきたが,とくに公明,民社,社会民主連合のみを指して〈中道3党〉という場合と,これに新自由クラブを加えて〈中道4党〉という場合がある(新自由クラブは1986年解党)。また,79年12月に公明,民社両党間で合意が成立した〈中道連合政権構想〉では,共産党を連合政権の対象としないことを明示し,さらに〈自民党との連合または連立は行わない〉ことを党首確認事項として公表した。【内田 満】。…
【連合政権】より
…その後第4次吉田内閣以降保守単独政権が続く中で,1970年代に入っていわゆる〈55年体制〉(保守合同による自由民主党と左右両派の統一による日本社会党との二大政党体制)の崩壊傾向が顕著化し,野党間の連合への動きが活発化してきた。すでに73年共産党は〈民主連合政府綱領〉案を採択していたが,79年から80年にかけての時期には,連合論がとくに高潮し,79年12月には,公明,民社両党の〈中道連合政権構想〉についての合意,80年1月には,社会,公明両党の〈連合政権についての合意〉が成立し,自民,共産両党抜きの連合構想が相ついで打ち出された。
[55年体制の崩壊後]
しかし,このような野党間の連合へのさまざまな動きは,結局,単なるかけ声にすぎなかったといっても過言ではあるまい。…
※「中道連合政権構想」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」