世界大百科事典(旧版)内の久万山騒動の言及
【生名[村]】より
…特筆すべき産業はなく,傾斜地でのかんきつ類の栽培とノリ養殖が行われる。藩政時代には松山藩の流刑地で,久万山26ヵ村の農民が紙の専売制と茶の値下がりで年貢に苦しみ,大洲藩に逃散した久万山騒動の責任者で家老の奥平久兵衛が流罪になっている。瀬戸内海国立公園に属し,立石山を中心に観光化が進められている。…
【美川[村]】より
…久万高原を中心に当村域も含む一帯は,かつて久万郷,久万山とよばれた。水田に乏しく,茶を産し紙すきが行われていたが,1741年(寛保1)松山藩の紙方新法に抗して農民3000人が逃散するという久万山騒動が起こっている。1871年(明治4)にも明治新政府の改革に反対して騒動が生じた。…
【柳谷[村]】より
…村域は,かつて久万山(くまやま)とよばれた地域の南部にあたり,土佐国境近くの山間では,コウゾを栽培して紙すきが行われていた。1741年(寛保1)松山藩の紙方新法に反対して農民3000人が大洲(おおず)城下に逃散(ちようさん)した久万山騒動は,当地の久主(くず)村(現,中津)から起こっている。面河川沿いに国道33号線が走るが,中心集落の落出(おちで)は,明治中期に国道の前身である新道が開通したことによって生まれた集落である。…
※「久万山騒動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」