京義線(読み)けいぎせん

世界大百科事典(旧版)内の京義線の言及

【平壌】より

…李朝時代には人口が2万人ほどに達したとみられ,ソウル,開城につぐ第3の都市であった。 日本の支配下に入って,1906年の京義線(京城~新義州)の開通を皮切りに,大同江下流方面への平南線(至南浦),日本海沿岸地方へ通ずる平元線(至元山),鴨緑江流域方面へ至る満浦線(至満浦)などが平壌を基点に整備され,平壌は北朝鮮の軍事,行政,経済の中心都市として急速に発達した。すなわち,1930年には人口が15万人以上になり,ソウルに次ぐ大都市となった。…

※「京義線」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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