世界大百科事典(旧版)内の仏学塾の言及
【地方結社】より
…慶応義塾関係者が結成した社交団体である交詢社(1880年創立,福沢諭吉・矢野文雄(竜渓)・小幡篤次郎ら,創立時会員1800余)や《東京横浜毎日新聞》を拠点として関東一円から東北地方南部にまで支社の網をはった嚶鳴社(おうめいしや)(1873年法律講習会として創立,沼間守一・肥塚竜・島田三郎ら,社員1000余)は,当時最大の知識人集団であり,地方政治運動の喚起に大きな力をもった。このほか留学帰朝者が組織した共存同衆(1874年創立,小野梓・馬場辰猪ら)や,中江兆民の仏学塾(1874年創立)は民権思想の普及に貢献した。また1881年に結成された国友会(末広重恭・馬場辰猪・大石正巳ら)や鷗渡会(小野梓・高田早苗ら),82年に慶応義塾関係者の組織した東洋議政会(矢野文雄・藤田茂吉・犬養毅ら,《郵便報知新聞》による)などは政府と民権派の対立激化の時期の産物であり,士族的・豪農的諸結社や嚶鳴社とともに政党(自由党,立憲改進党)結成の直接の基盤となった。…
【中江兆民】より
…2年にわたる滞仏生活の後,帰国。東京外国語学校校長,元老院権少書記官を務める一方,仏学塾を開いてフランス学の普及を目ざした。77年1月元老院を辞し,以後ふたたび官職につかなかった。…
【フランス語】より
…開国後は蕃書調所(ばんしよしらべしよ)でフランス語の学習・教授が始められた(1860)ほか,フランス政府の協力のもとに,通訳やフランス語に通じた士官養成の機関として横浜仏蘭西語学伝習所が設立(1865)され,フランス人による教授が開始された。維新以後は新政府の欧米文化導入政策を背景に,外国語,ことに英語を中心とする洋学塾が明治初期に隆盛を見たが,日本フランス学の始祖といわれる村上英俊(ひでとし)(1811‐90)の主宰する達理堂,フランス留学から帰った中江兆民の開いた〈仏学塾〉ではフランス語が講じられ,多くの門弟を集めた。官立の教育機関では幕末の開成所を引き継いだ大学南校,また東京外国語学校(1873設立)などでフランス語教育が行われたが,ことに法学や兵学の分野で重んじられたフランス語は,司法省明法寮(1871設立)や陸軍士官学校(1874設立)の教科にも採り入れられた。…
※「仏学塾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」