世界大百科事典(旧版)内の体操場の言及
【運動会】より
…とくに最初の対外戦争である日清戦争を機に,戦意高揚の手段として小学校における運動会は,急速に全国規模をもって普及した。当時は,就学児童数が少なく,また学校に体操場が備えられている例が少なかったから,近隣の数校が近辺の河原や空閑地に集合して学校対抗で競技する〈連合運動会〉方式が多かったが,日露戦争当時には,全国の小学校で年1~2回施行される行事となっていた。とくに1900年の小学校令改正により,体操が小学校の必須科目に位置づけられ,5年の猶予期間をおいて,1校当り最小限100坪(330m2)以上・子ども1人当り1坪以上を基準とする屋外体操場(運動場)の設置が義務づけられるとともに,就学率の急上昇によって学校規模が拡大し,施設・人員の両面から,従来の連合運動会に代わって各学校単位の運動会が開かれることとなった。…
【運動場】より
… 西欧の教育制度を導入した明治期の日本は,このように進展した欧米の体育と出会い,運動の施設も欧米に倣って設置するようになった。その当初,運動場はplaygroundやSpielplatzの邦訳語として遊園とか遊戯場とか呼ばれていたが,やがて体操場Turnplatzと併用されるようになる。1878年(明治11)に体操伝習所が設立され,日本で最初の体操専任教師が養成されるようになると,遊戯場は次第に体操場と呼ばれるようになっていく。…
※「体操場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」