世界大百科事典(旧版)内の備作平民会の言及
【被差別部落】より
…この運動の基本は,〈一般民〉からの差別の要因として被差別部落の生活実態の酷さ,風俗・教養面での立遅れを重視し,それらを自主的に〈改善〉すべく努力を積み重ねることで自立の基礎を固め,しかるのちに〈一般〉と被差別部落との〈融和〉を広く社会に訴えていこうとする点にあったといえる。その組織体は全国各地で編まれたが,和歌山県における〈進徳会〉(1893),大阪府における〈勤倹貯蓄会〉(1895),岡山県における〈備作平民会〉(1902)などの結成,活動がよく知られている。ことに,〈備作平民会〉は岡山県内の被差別部落を統合したもので,1県単位での運動組織の先駆をなしたものであるが,これについで1903年(明治36)に大阪で結成された〈大日本同胞融和会〉は,東京,愛知,三重,京都,大阪,奈良,和歌山,兵庫,岡山をはじめとして九州,四国地方からも参加者を得,ほぼ全国的規模での〈部落改善運動〉組織として誕生し,解放運動史上に一時期を画した。…
【部落解放運動】より
…この運動は差別の原因が被差別部落の側にあるとし,まず生活改善と風俗改良に努めて差別の解消をはかろうというものであった。岡山県の三好伊平次らが1902年に組織した備作平民会のように,各地に部落改善団体が設立され,翌年にはその代表者が大阪で大日本同胞融和会を開いて運動の拡大をはかった。このような自主的な部落改善運動が差別の原因を社会の側に見いだし,反体制の方向に進むことを恐れた政府は,日露戦争後,地方改良運動の一環として部落改善政策を進め,上から指導・統制する部落改善団体をつくらせていった。…
※「備作平民会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」