世界大百科事典(旧版)内の加藤参和の言及
【唐来参和】より
…江戸後期の戯作者,狂歌師。姓は加藤,通称和泉屋源蔵,別号唐来山人,松下井三和,狂歌号は質草少々(しちぐさしようしよう)。江戸の人。武士の家柄で幕府の高家に仕えたというが定かではなく,同時期の黄表紙作者奈蒔野馬乎人(なまけのばかひと)(志水燕十)と同一人物との説もある。版元蔦屋重三郎の義弟となり,本所松井町(墨田区千歳)の娼家に入婿したが,晩年は離縁され落魄のうちに終わった。最初,洒落本《三教色》(1783)を書き,翌々年の《和唐珍解(ほうとんちんけい)》が長崎丸山遊廓での唐人の遊興を描き,その詞を唐音でいわせ,日本語の訳を付けるという趣向で注目をひき,黄表紙《莫切自根金生木(きるなのねからかねのなるき)》(1785)が外題(げだい)の回文(かいぶん)の趣向と,金が出来て出来て苦しむという現実を逆転させた趣向によって黄表紙中の傑作と評価され,《天下一面鏡梅鉢》(1789)は寛政改革を風刺して評判になった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」