世界大百科事典(旧版)内の北京律の言及
【俊芿】より
…彼に帰依する者は,後鳥羽・順徳両帝,北条政子,北条泰時などの権門から,下は広く庶民に及び,その戒律復興の運動は鎌倉仏教界に大きな衝撃を与えた。後世その戒律を北京律という。 俊芿滅後の1242年(仁治3)に没した四条天皇は,生前から俊芿の生れ変りと世に伝えられ,大葬も泉涌寺で執行され,遺骸は,表面に不可棄法師と刻された俊芿の石造卵塔墓のかたわらに葬られた。…
【律宗】より
…一方,1211年(建暦1)に入宋求法より帰国した泉涌寺の俊芿(しゆんじよう)は中国直伝の律書とともに律宗を伝え,泉涌寺を天台・禅・律3宗兼学の道場として律宗の復興をはかり,後鳥羽天皇,藤原道家,北条泰時をはじめ朝野の帰依をうけた。俊芿の伝えた律を北京律と称し,唐招提寺,西大寺の系統を南京律と称している。しかしその後両者互に交流し,さらに叡尊は弟子を入宋させて律三大部を輸入するなど,相互の見解の相違はまったく解消するにいたった。…
※「北京律」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」