世界大百科事典(旧版)内の千手寺城の言及
【三国湊】より
…また三国湊での交易に対して交易(きようやく)上分が課されていたが,同年この上分は内侍所(ないしどころ)と興福寺が半分宛て徴収することと定められた。33年(元弘3)6月には後醍醐天皇の新政に呼応したとみられる三国湊千手寺僧などが強盗,殺害を行っており,のち,南朝方の畑時能は湊城(千手寺城)に拠って北朝方と戦っている。南北朝期以降は三国湊の交易上分および付属田畠を宮内省内膳司が支配していたが,81年(弘和1∥永徳1),1412年(応永19)には近隣武士の押妨が知られ,66年(文正1)にも内膳司と興福寺が三国湊の所領について争っている。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」