世界大百科事典(旧版)内の受不施派の言及
【日奥】より
…日蓮宗不受不施派の派祖。京都町衆の子。…
【不受不施派】より
…こうした不受不施は,折伏を教化の基本にすえて日蓮宗が大きく教線を全国にのばした室町時代に,宗内各門流に僧俗の守るべき宗制として広範に定着した。だが近世初頭,謗法者の豊臣秀吉が方広寺大仏の千僧供養に京都日蓮宗の出仕を命じたとき,この宗制を堅守して出仕を拒否した妙覚寺日奥ら不受不施派と,宗制よりも世俗の政権の命を重視して出仕した受不施(じゆふせ)派の2派に,日蓮宗は分裂した。そののち数十年間,宗内2派の対立抗争は激化し,問題の焦点は不受不施の宗制そのものの是非よりも,宗制という仏法と,王命という世法が対峙したとき,宗門や仏教者はいずれを選択すべきであるかという幕府の宗教統制政策の根幹に抵触する問題に移った。…
※「受不施派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」