世界大百科事典(旧版)内の吉備大宰の言及
【吉備】より
…吉備全域に濃厚な部民の分布を復元しうること,児島屯倉(みやけ)と白猪(しらい)屯倉が設置されること,大王家に直属する県(あがた)が約10ヵ所もおかれ,《国造本紀》によると吉備地域に9国造が置かれて吉備勢力の分断がはかられることなどが,それを示す。大化改新後700年(文武4)まで吉備全域と播磨を含む統轄官として吉備大宰が置かれたが,壬申の乱後に備前,備中,備後の3国,713年(和銅6)に備前から美作が分立し,政治組織としても一体性を失った。757年(天平宝字1)に上道斐太都(ひだつ)に吉備国造の称号が付与されたのが,かつての吉備の一体性を伝える最後の事例である。…
※「吉備大宰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」