世界大百科事典(旧版)内の国府台合戦の言及
【上総国】より
…このほか万喜城(夷隅郡夷隅町万木(まんぎ))に土岐氏,上総の北部土気城(千葉市土気町),東金城(東金市田間)には酒井氏が拠っていた。土気酒井氏は第一次国府台合戦(1538)までは里見氏に属し,戦後は北条氏に従い,第二次国府台合戦(1564)からは里見氏に属し,76年(天正4)以後は北条氏の傘下に入るなど去就常なく,北条氏傘下の東金酒井氏とは同族間で一時は対立していた。1564年(永禄7)里見義弘は再度国府台で北条氏康と戦ったが敗れ,以後上総の北半は北条氏の傘下に入り,上総南部と安房は里見氏が勢力を保った。…
【国府台】より
…1479年(文明11)江戸城を居城とする太田道灌もここに城を築いて足利成氏と対峙した。関東中世史にとって重要な国府台合戦は,安房国の名族里見氏と,急速に強力になりつつあった小田原北条氏との間で,この地を戦場にした争いをいう。第1次合戦(1538)では北条氏綱が足利義明,里見義尭を破って下総への進出を果たし,第2次合戦(1564)には下総へ進出した里見義弘がいったん国府台を占拠したが,北条氏康・氏政のために敗れ,北条氏の上総進出をもたらす結果となった。…
【下総国】より
…このころ下総千葉介は荒廃した千葉城を離れて居城を佐倉(将門山)に移していた。
[国府台合戦]
その後,上杉氏に代わって後北条氏の勢力が伊豆・相模から武蔵へと進出する。古河公方足利高基(成氏の孫)は豆相の北条氏や下総の千葉,原氏らを頼んだが,高基の弟義明は上総武田氏や安房里見氏に支持され,1517年(永正14)小弓(おゆみ)城(千葉市南生実(おゆみ))の原氏を討ってこれに拠り,小弓公方(小弓御所)と称し,古河公方に代わり関東の統一を志した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」