国民春闘(読み)こくみんしゅんとう

世界大百科事典(旧版)内の国民春闘の言及

【社会契約】より

…1973年秋からの石油危機による急激な物価騰貴の結果,賃金上昇率は30%以上にのぼり,社会契約の効果はほとんどみられなくなったため,75年7月に政府は新たな賃金抑制策を打ち出し,社会契約は一応の終止符を打つことになった。 日本では社会契約という名称で進められた運動はないが,1973年の石油危機の際の賃金上昇に対して日経連がガイドラインを打ち出し,賃上げ要求に強硬な姿勢を示したのに対して,労働組合側が〈国民春闘〉という名称で国民一般にかかわる経済・福祉政策の要求項目を運動目標としたことがあり,これが社会契約的運動とみられる。その後の不況の長期化にともない,日本経済や企業経営の許容しうる範囲内に賃上率なり運動を自粛する〈経済整合性〉重視の運動が主流となり,この運動を指して社会契約とみる見方もある。…

【春闘】より

…厳密には,総評,中立労連など春闘共闘委員会(1975年以降は国民春闘共闘会議)に参加する単産の賃上げ闘争を指している(同盟は春闘という用語を拒否して〈賃闘〉とよぶ)が,一般には,毎年春の時期に集中して行われる賃上げ闘争が全体として春闘とよばれる(なお総評は1989年に解散)。
[春闘の始まり]
 1950年に総評が結成されて以降,傘下の単産はそれぞれに賃上げの実現をめざして活動を行ったが,大きな成果をあげることができず,とくに53年,54年の時期にかけては賃金闘争はほとんど失敗に終わった。…

【総評】より

…60年には中立労連が加わって,春闘共闘委員会を結成し,60年代には〈ヨーロッパ並み賃金〉の実現を目指して大幅な賃上げを獲得していった。70年代に入ると,春闘では社会保障や税金など国民生活にかかわる制度的要求が〈国民春闘〉の名のもとにとり上げられることとなった。しかし,70年代中ごろから日本経済が低成長期に入り,国家財政も迫(ひつぱく)してくるにつれ,賃上げ幅も低下し,制度的な生活要求の実現も困難になってきた。…

【労働運動】より

…このような公労協単産における戦闘力の増大は,国鉄・私鉄を結ぶ交運共闘と相まって春闘にもはね返り,春闘相場の底上げにも一定の役割を果たした。さらに,73年10月の石油危機をきっかけとする〈狂乱インフレ〉のなかで,総評は物価,税制,社会保障など国民の共通した要求である政策的課題をも獲得目標に掲げた〈国民春闘〉を提唱し,春闘の新しい展開を図った。この運動は,74年春闘での大幅賃上げのばねとはなったものの,すぐ反転が始まった。…

※「国民春闘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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