世界大百科事典(旧版)内の国民音楽協会の言及
【サン・サーンス】より
…幅広い教養を身につけ,明快で優雅な作風で当時のほぼすべてのジャンルを手がけたが,真に独創的な音楽表現を生み出すにはいたらず,折衷的とも評される。R.ビュシーヌ,フォーレ,C.フランクなどとともに国民音楽協会を設立(1871),フランスの若手作曲家に作品演奏の場を与えることに貢献する一方,著述家としては反ワーグナー,反印象派の論陣を展開した。代表作には交響詩《死の舞踏》(1874),室内楽曲《動物の謝肉祭》(1886),《ピアノ協奏曲第2番》(1868),《同第4番》(1875)などがある。…
【フランス音楽】より
…一方,サン・サーンスは器楽復興の推進者であった。彼は自ら交響曲,協奏曲を書くとともに,声楽家R.ビュシーヌと語らって1871年〈国民音楽協会〉を設立,〈アルス・ガリカArs gallica(フランスの芸術)〉を旗印に掲げて多くの同志を集め,現存のフランス人作曲家による室内音楽と管弦楽曲の紹介に努めた。 国民音楽協会の主導権をサン・サーンスに代わってやがて握ったのが,フランクとその弟子たち(デュパルク,ショーソン,とりわけダンディ)である。…
※「国民音楽協会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」