堅田門徒(読み)かただもんと

世界大百科事典(旧版)内の堅田門徒の言及

【堅田】より

… 中世の堅田は,大きくわけて殿原(とのばら)衆と呼ばれた地侍と,全人(まとうど)衆と呼ばれた一般の百姓・商工業者の二つの階層よりなっていたが,全人衆の多くはやがて蓮如の教化によって,一向宗門徒となった。この堅田門徒の中心となったのが本福寺である。堅田門徒の台頭に対して領主延暦寺は,1468年(応仁2)堅田を攻撃したので(堅田大責(おおぜめ)),堅田門徒は沖ノ島まで落ちのび,70年(文明2)延暦寺に〈礼銭,礼物〉を支払うまで還住を許されなかった。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」