朝日日本歴史人物事典 「多田加助」の解説
多田加助
生年:寛永16.2?(1639)
江戸前期の義民。信濃(長野県)安曇郡中萱村生まれ。幼名を三蔵といい,寛文4(1664)年家督を相続,加助(嘉助とも)を襲名,同時に庄屋となる。貞享3年,従来の籾1俵で玄米2斗5升の基準を3斗5升として年貢増徴を企てた新法に反対して松本城下に強訴した百姓一揆の頭取として磔となる。このとき加助が「たとえ殺されても2斗5升の願いは実現させるぞ」と絶叫し,その怒りの声で松本城が西に傾いたという。一揆後40年余を経て藩主水野忠恒のときに編纂された『信府統記』(1724序)により事件の全貌を知ることができるが,忠恒は享保10(1725)年改易となり,人々は加助の怨霊のせいだと噂した。また,佐久郡で旗本となった水野家は加助の像を刻ませ供養を怠らなかったという。享保20年,加助の屋敷の隅に小祠建立。明治11(1878)年竹内泰信が「中萱嘉助略伝」を『松本新聞』に連載後,加助は小説,芝居,浪曲などに数多く取り上げられるようになる。明治13年,義民200年祭に社殿を再建,一揆の犠牲者を合祀。明治41年,義民碑建立。昭和35(1960)年,貞享義民社として神社本庁の承認を受け,加助の屋敷跡が県史跡に指定された。昭和47年,義民290年祭を記念し義民会館が建てられた。<参考文献>小野武夫編『徳川時代百姓一揆叢談』上,横山十四男『義民』
(小椋喜一郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報