世界大百科事典(旧版)内の多胡古麻呂の言及
【藤原広嗣の乱】より
…彼は740年8月下旬に玄昉と吉備真備を除くことを要求する上表文を提出し,中央政府の返事を待たずに8月末ごろ挙兵にふみ切った。広嗣は軍を三つにわけ(指揮官は広嗣,藤原綱手,多胡古麻呂),豊前国の登美,板櫃,京都(みやこ)の三鎮をめざした。広嗣の軍は,途中筑前国の遠珂(おか)郡家に前進基地をおき,筑前国内の兵を徴発しながら進むところを間諜に目撃されている。…
※「多胡古麻呂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」