世界大百科事典(旧版)内の大原紹正の言及
【飛驒郡代】より
…7代長谷川忠崇の1738年(元文3)以降,常時高山に在陣となった。77年(安永6)12代大原紹正(つぐまさ)のとき,打出し検地の功により布衣郡代に昇進,以後幕末に至る。飛驒郡代の役料は400俵,江戸城では躑躅(つつじ)間詰。…
【飛驒国】より
…1694年から翌年にかけて実施された総検地では,総石高4万4469石余。のち代官大原紹正(つぐまさ)による1773‐74年(安永2‐3)の検地では5万5500石余に増加するが,しかし国中の村数415ヵ村,家数1万5822戸,人口8万4780人(1843)に比すればきわめて低い数値である。ここに端的に示される農業生産力の低さが,近世の飛驒にさまざまな特質を与えている。…
※「大原紹正」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」