世界大百科事典(旧版)内の大日本体育協会の言及
【安部磯雄】より
…この間,代議士当選4回,東京市会議員にも選ばれた。以上の社会運動とは別に早大野球部を創立し,早慶戦の端緒をつくり,また嘉納治五郎らと大日本体育協会を創設(1912),戦後は日本学生野球協会会長も務めるなど近代スポーツ導入に役割を果たした。熱心な産児制限論者で廃娼運動にも永年携わった。…
【岸清一】より
…1893年第1回弁護士試験に合格,三菱財閥の顧問弁護士となり,民事訴訟の権威とされた。1921年嘉納治五郎の後を継いで大日本体育協会の第2代会長に就任,強い指導力を発揮して興隆期の日本スポーツ界をリードした。24年IOC(国際オリンピック委員会)委員に就任し,32年ロサンゼルス・オリンピックの際IOC総会で,40年のオリンピック大会の東京招致計画(のち中止)を発表した。…
【国民体育大会】より
…略称は〈国体〉。第1回大会は大日本体育協会(日本体育協会の前身)が敗戦で荒廃した国民生活に活力を与え,日本のスポーツ界を再建するために企画,主催し,夏季,秋季両大会が1946年に京阪神地区で,冬季大会スケート競技会が47年に青森県八戸市で開催された。以後毎年開かれている。…
【選手制度】より
…選手制度は競技スポーツにおいてとくに顕著にみられ,発達している。日本のスポーツ選手制度は,明治中期における高等学校の対校試合のための学校代表選手の選抜にその萌芽が認められるが,本格的な選手制度の確立の契機は,第5回オリンピック大会(ストックホルム)に参加する代表を選抜するため前年の1911年に行われた予選競技会と,これを運営する大日本体育協会(現在の日本体育協会)の設立であった。大日本体育協会は種目ごとの協会と各都道府県の地域協会の結成を促すとともに,それらを統轄する立場を占め,スポーツの組織化と全国選手権大会などの開催を通じて選手制度の確立に寄与していった。…
【日本体育協会】より
…これらに要する資金は,自主財源のほか国庫補助金,公営競技団体の補助金,一般寄付などでまかなっている。歴史的には,オリンピック大会への参加要請を契機に,1911年7月,オリンピック大会へ選手を派遣する母体である日本のNOC(国内オリンピック委員会)として,〈大日本体育協会〉(初代会長嘉納治五郎)の名で設立され,翌年,第5回ストックホルム・オリンピック大会へ4人の選手団を派遣した。その後,国際競技連盟への加盟の問題や国内においてしだいに競技別の全国組織が整備されたことなどから,25年陸上競技,水泳などの7競技連盟を加盟団体とする構成に組織を変更した。…
※「大日本体育協会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」