世界大百科事典(旧版)内の大日本壮士改良演劇会の言及
【角藤定憲】より
…岡山県生れ。《東雲(しののめ)新聞》の記者時代,中江兆民のすすめで〈大日本壮士改良演劇会〉を組織し,1888年12月大阪の新町座で自作の小説を脚色した《耐忍之書生貞操佳人(こらえのしよせいていそうのかじん)》ほかを上演,新演劇(新派)の先駆者となった。94年には一座をひきいて上京,その後も〈壮士演劇の元祖〉を名のって各地を巡業したが,演技が粗雑であったうえに経営の才がなく,晩年は不遇だった。…
【壮士芝居】より
…のちに一般には〈書生芝居〉とも称され,新派の一起点となった。定説では1888年(明治21)12月3日,大阪の新町座で自由党壮士角藤定憲(すどうさだのり)らが〈大日本壮士改良演劇会〉を開催し,《耐忍之書生貞操佳人(こらえのしよせいていそうのかじん)》《勤王美談上野曙》を上演したのが始まりといわれる。次いで91年2月堺の卯(う)の日座で〈書生芝居〉の一座を組織した川上音二郎が《経国美談》《板垣君遭難実記》を上演,東京にも進出してオッペケペ節を流行させた。…
※「大日本壮士改良演劇会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」