世界大百科事典(旧版)内の大離教の言及
【キリスト教】より
…教皇至上主義(パパリズム)に対して会議主義(コンシリアズム)が起こったのもこのころのことで,イギリスの神学者グロステストやオッカム(オッカムのウィリアム)が強く支持し,ガリカニスムを主張する国民主義的なフランス人もこれを受けいれた。捕囚はグレゴリウス11世の帰還で終わったとはいえ,フランスの枢機卿らはクレメンス7世(在位1378‐94)をアビニョンにおいてローマに対する対立教皇とし,1417年まで〈大離教〉と呼ばれるこの分離をつづけた。そこで公会議すら実効なきものとなったが,ようやく49年にフィレンツェ会議でニコラウス5世を選挙してこの分離に終止符をうった。…
【コンスタンツ公会議】より
…コンスタンツ(現,ドイツ)で開かれた重要な公会議。1378年以後39年間カトリック教会はローマとアビニョンとに2人の教皇をもって分裂し,歴史上〈大離教(シスマ)〉と呼ばれる事態が続いた。それを終わらせようと1409年に招集されたピサ教会会議は,ローマのグレゴリウス12世とアビニョンのベネディクトゥス13世とをともに罷免し,新たにアレクサンデル5世を教皇に選んだが,2人の前教皇が罷免を承認しなかったので,かえって3人の教皇が鼎立する結果となった。…
【シスマ】より
…初期の例としてはデキウス帝の迫害直後ローマで起こったノウァティアヌス派のシスマ,ディオクレティアヌス帝の迫害後カルタゴで起こったドナトゥス派のシスマをあげうるが,これらはいずれも数世紀にわたって続いた。ヨーロッパでは対立教皇が選ばれるごとにシスマが起こったが,とくに影響の大きかったのは1378年から約40年続いた〈大離教〉あるいは〈大分裂〉と呼ばれるものである。これは教皇座がアビニョンからローマに帰還した直後に起こった。…
※「大離教」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」