世界大百科事典(旧版)内の威王の言及
【春秋戦国時代】より
…しかし西方の秦が魏の進出を阻止したので,東に力を向け,都も安邑(山西省解県)から大梁(河南省開封)にうつし,前354年に趙の都邯鄲(河北省邯鄲)を攻め,前343年には南の韓に侵攻したが,いずれも救援の斉に敗れ,以後勢を失うにいたった。魏を抑えた斉は前4世紀の後半に極盛期を迎え,威王(在位,前356‐前320),宣王(在位,前319‐前301)のときには,都の臨淄は最も繁栄した都市となり,諸国から多数の学者が招かれ,自由な討論研究が許された。外へは,当時北に勢力を拡大していた燕を攻め,前314年には燕の基幹である河北地方の全域を一時占領するに至った。…
【稷門】より
…中国,斉の都臨淄(りんし)の城門の名。戦国斉の盛時,学問を愛好した威王や宣王は学者を招き,稷門付近に邸宅を建てて住まわせ,多額の生活費を与えて論争や著述に従事させた。その数は数百人から1000人にものぼり,稷下の学士とか稷下先生とよばれた。…
※「威王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」