世界大百科事典(旧版)内の安芸国人一揆の言及
【国一揆】より
…南北朝・室町時代に在地領主層が中央・地方における動乱への対応,および領主権確保を目的とし,契状を取り結ぶなどして地域的に連合した形態をいう。(1)一定の政治的意図をもって上から組織されたもの(九州探題今川了俊が南朝側勢力討伐のためにその軍事力として編成した面をもつ1377年(天授3∥永和3)の南九州国人一揆など),(2)新任の守護に軍事的に対抗したもの(1400年(応永7)信濃国人が守護小笠原氏と戦ったもの,後述の安芸国人一揆など),(3)山城国一揆のように,畠山氏両軍を追放して国人層による国内支配をおこなった事例,などがある。いずれも外部からの政治的契機によって形成されており,その意図が果たされたり,守護大名の領国支配が進展すれば解体する。…
【毛利氏】より
…しかし78年(天授4∥永和4)元春は足利義満から吉田荘地頭職を安堵され,このころまでに一族の分裂抗争はいったん終結した。 応永の乱(1399)後,幕府の大内与党制圧政策に対して結成された安芸国人一揆には,毛利氏は福原広世を除き惣領光房をはじめ5名が加わっており,光房は一揆の中心の一人であった。しかし元春の子弟をもって形成された庶子家と惣領家との間には確執が絶えなかった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」