世界大百科事典(旧版)内の宮騒動の言及
【摂家将軍】より
…三寅は当時2歳であり,頼朝の後家の北条政子が政務を行ったが,25年(嘉禄1)政子の死後,三寅は元服して頼経と称し,翌年,正式に征夷大将軍に任命された。44年(寛元2)子の頼嗣に将軍職を譲って後も頼経は隠然たる勢力を持ち,46年北条時頼が執権となると,北条一門の名越光時が頼経に接近し,執権の地位を奪おうとする事件がおこり,頼経は京都に追放された(宮騒動)。この事件に座して,頼経の父道家も関東申次を罷免されて失脚した。…
【藤原頼経】より
…頼経が長く鎌倉にとどまり,御家人(ごけにん)とも親密となり,執権勢力に対抗するようになると,これを恐れた執権北条経時は,44年(寛元2)頼経に迫って将軍職を子の頼嗣に譲らせた。頼経は翌年出家したが,なお声望を保ち,46年北条一族の名越光時が執権の地位を奪おうとした事件(宮騒動(みやそうどう))に関係して京都に追われた。この事件によって頼経の父道家も失脚し,三浦光村が頼経の寵臣であったことから,翌47年(宝治1)三浦氏も滅ぼされた(宝治合戦)。…
【北条時頼】より
…46年閏4月の兄経時の死没にさきだち3月23日執権となった。その直後,一族の名越光時を誅し,将軍藤原頼経を追放(宮騒動),47年(宝治1)には安達景盛と計って三浦泰村一族を滅ぼした(宝治合戦)。49年(建長1)引付衆(ひきつけしゆう)を設けて訴訟制度を改革し,52年には将軍藤原頼嗣を追放して後嵯峨天皇の皇子宗尊(むねたか)親王を将軍に迎え,西園寺実氏を太政大臣につけるなど,執権政治と北条氏の権威の増大を計った。…
【北条光時】より
…越後守となり同国守護を兼ねた。1246年(寛元4)北条経時が弟時頼に執権を譲って死亡するや,前将軍頼経と結んで時頼を除こうと謀ったが,逆に有力御家人三浦・安達氏を味方とした時頼派に先を越され,弟時幸は自殺,光時も出家して(法名蓮智)伊豆国江馬に閑居させられた(宮騒動)。【青山 幹哉】。…
※「宮騒動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」