世界大百科事典(旧版)内の宴の松原の言及
【武徳殿】より
…武徳殿の東側の広場が馬場で,南北方向の2列の柵による埒(らち)を設け,その中で騎射や競馬を行った。武徳殿から内裏中重までは宮内で最も広い空閑地で,その東部は〈宴(えん)(または縁)の松原〉と称する松林となっていた。975年(天延3)2月武徳殿は焼亡するが,986年(寛和2)5月までに再建された。…
【平安宮】より
…すなわちこれらによって平面構成は,その北辺が京域の北極大路に接する,いわゆる北闕(ほつけつ)型と考えられてきたが,近時の研究により,当初の宮城(第1次平安宮)は,その北辺と北極大路との間に2丁の空間をもつ,いわゆる藤原京型であったこと,それが9世紀の末,大蔵倉庫群の整備のため北へ2丁拡大延長されて北闕型(第2次平安宮)となり,その際宮城門も上東,上西の2門が設けられ14門となったこと,などが指摘されている。 内裏については,平安宮独自のものとして,その西方に〈宴(えん)の松原〉と呼ばれる一定の空間があった。饗宴のための広場とも,内裏を建て替えるときのための余地とも考えられるが,ともにその事実がなく,明らかでない。…
※「宴の松原」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」