富士松浄瑠璃(読み)ふじまつじょうるり

世界大百科事典(旧版)内の富士松浄瑠璃の言及

【新内節】より

豊後節(ぶんごぶし)の一派で,鶴賀若歳(つるがわかとし)改め2世鶴賀新内の残した名称。それ以前の同系統の富士松,鶴賀,豊島らの節も含み,また後年富士松魯中(ろちゆう)の称した富士松浄瑠璃も,現在では新内節に含めている。
[歴史]
 享保(1716‐36)の末ごろ,上方から江戸に下った宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじよう)にしたがった宮古路加賀太夫は,1745年(延享2)に師家を去って独立,富士松薩摩(翌年富士松薩摩掾を受領)と名のり52年(宝暦2)まで劇場に出演し,57年に没した。…

【富士松魯中】より

…魯中は旧来の新内節のほか,一中節や宮薗節(みやぞのぶし),義太夫節なども習得したと伝えられ,その作品にはそれらの転用も多く,それまでの新内節とは違った味のあるものが多い。自流を〈富士松浄瑠璃〉と称したが,明治期以降は新内節と総称されるようになった。(2)2世(1852‐96∥嘉永5‐明治29) 初世の長男で本名福太郎。…

※「富士松浄瑠璃」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」